「蒼穹のファフナー」(2004, 羽原信義監督)
バンダイチャンネルで観放題になってたので要所を一気観。
もう何度も観ているのに、そのたびに泣き所が増えてしまって、結局ずっとグズグズ言いながら観ていた。
2015年1月からは新シリーズ?となる「蒼穹のファフナー EXODUS」が放送予定ということで、今から非常に楽しみです。
日常と非日常、希望と絶望、自分と相手。
他方の中にこそ色濃く浮き上がってくるものの姿を、運命を仕組まれた少年たちとともに探す物語だ。
「あなたはそこにいますか」と問いかけてくる敵は、すべての存在を無に帰すために、最後の楽園竜宮島へと飛来する。
「無の存在」であるフェストゥムは、人類を無に帰すことで宇宙をより高位へと移行させようとする。その手段が「同化」だ。
その圧倒的な力と物量に対し唯一有効な力をもつのは、奇しくも敵であるフェストゥムの因子を遺伝子に埋め込まれた少年少女と、彼らにしか操れない巨人ファフナーのノートゥングモデルだけだ。
主人公の真壁一騎は、幼少期に親友である皆城総士が「同化」を求めてきたのを拒み、彼の左目を傷つけてしまう。それが後悔とトラウマとして残り、14歳となった今も自己嫌悪を超えた自己否定を続けている。
この自己否定こそが一騎のファフナーパイロットとしての適性を強く高めているというのは皮肉な話だが、ファフナーそのものを受け入れ、ジークフリードシステムで総士とクロッシングするのに必要不可欠な資質だと言える。
一方で一騎に傷つけられた総士は「(同化するはずだった、自己と等しいはずの)他者からの拒絶」を経て絶対的な自己を認識する。この傷が原因でファフナーを操ることはできなくなってしまうのは、自己認識の高さが他者(=ファフナー)との壁を強固にしてしまうからだ。
しかしこのトラウマは特異な経験ではなく、誰もが経験するイニシエーションを「同化」というテーマで描いたにすぎない。
誰もが幼少から思春期にかけて築いていく自己と他者の境界と、その境界の向こう側、他者によって投影される自己。
中盤で登場する日野道生がノートゥングモデルへの適性を失っているのは、おそらくこの境界線が不安定である年齢を過ぎ、確かな境界線を形成してしまっているからだろう。
一騎は自分がどこにもいない「無」つまり自分以外の「総て」であり、
総士は自分だけしかいない「一」だった。
その二人が戦いや仲間の死、衝突を経るにつれ自己―他者の「アンビバレンス」の中で他方を確かなものとして獲得するというプロットこそがこの物語の本質だ。
このプロットが敵の存在やロボットのシステムに因子のように埋め込まれ、そしてそれらが入れ子構造を成しているというのが、この作品の魅力の一つと言えるだろう。