「げんしけん二代目」
「げんしけん二代目」のアニメが熱い。
主要キャラの卒業で興味が薄れてしまっていたけど、この機に見返すと原作も結構えげつないことになってる。
読んでてなんとなーく考えたことのまとめ。
今やアニメやマンガ、ゲームに触れて「オタク」になる人の数ははかり知れない。
とはいえ筆者はオタク文化の黎明期に立ち会ったわけでもないし、そういったアングラ・サブカル的なものがある程度市民権を得てからの時代しか知らないので、あまり大きな声で断じることはできない。
それでもここ数年でオタクの裾野は広がり、若者の間ではファッションオタクなるステータスも存在している。
それだけ多くの深浅入り混じったコンテンツが生まれてきたわけだが、コンテンツの多様化と同時にオタクライフもさまざまになり、「げんしけん」に登場するようなオタクとして充実した環境とそうではない環境との壁が生まれてきたようでもある。
作中でもたびたび登場するオタクらしいカミングアウト。
これが各々のキャラクターに葛藤や決心をもたらすように、現実のオタクたちもはじめは「趣味を隠したいが明らかにもしたい」という矛盾の抑圧(ジレンマ)を抱えており、これを乗り越えて消化するか否かで周囲の環境は大きく変わるだろう。
カミングアウトによって同様の仲間やコミュニティを獲得するか、趣味の不一致を抱えながら抑圧を受け続けるかという分岐が発生するのだ。
「充実したオタク」が出現しコミュニティを形成する、即ち「げんしけん」で描かれる日常がある程度のリアリティをもって受け取られるような時代になった。一方であのような充実したオタクライフを経験できない(できなかった)層が存在するとき、彼ら彼女らは「げんしけん」に憧れ、そこに存在したかもしれない自己を投影し、消化する。
このようなオタク的カタルシスを感じることが「げんしけん」の魅力であり、支持される理由の一つだろう。
魅力的なキャラクターや彼らの織りなす人間関係など、本作が人気を得る素養は十分だが、読者の中でも前述のような環境にあった人にこそ、より一層の感動を呼ぶのではないだろうか。