「風立ちぬ」(2013, 宮崎駿監督)
実在の人物をモデルにその生涯を描くとあって、ジブリ作品としてはファンタジー色は控え目になってます。
それでも二郎の夢や彼の見る飛行機の姿、なにより風や光の映像表現について「さすが、これがジブリか」と魅せるところは十二分にあります。
あの映像美に裏打ちされたテクノロジーの躍動も見どころの一つではないかと思います。
これでもか、と吹き迫る風。
「まだ風は吹いているか」。カプローニは何度も問う。
関東大震災の描写は圧巻である。大地とはこれほどまでに叫び、そして揺れ動くものなのか。
大気の震えである風。そして大地の震えである地震。
震えはその時代や社会、個人に至るまで、それらの抱えているものを顕在化させる。
そして同時に、その一切を呑みこんでしまうような強引さをも兼ね備えている。
その性質が普遍的であるからこそ、3.11以降のこの時期に公開された映画と現実との共通項もまた浮き彫りにされるのだ。
たとえば飛行機と原発。たとえば戦闘機と核ミサイル。堀越二郎や他の誰かの夢であって顕在化されたものは、片や戦争、片や経済成長という大きな大きな「風」に呑みこまれてその形を変えてしまった。
この映画にそのようなある種のメッセージを見出すのは、作中で何度も吹き荒れる「風」のせいだろう。
ある人は地震のシーンについて「あれは津波にしか見えない」と言ったが、「地震」「津波」と聞いて想起されるのは、やはり3.11だ。
しかし3.11以降に作られた描かれた何もかもが、その呪縛の内にある必要はない。
この映画が想起させるのはもっと大きくて強い「震動」なのだから。
この世界は常に震えている。
それは戦争のような大きなうねりに限らず、世界中の人々の日々の生活、そしてその中で想い、行動するその一つ一つが震動である。
それらがあるところに集まって思想を動かし、社会を動かし、世界を動かし、感情を動かしている。
にも関わらず、人はときに(大地さえも)動いていることを忘れてしまう。
そしてただ風に流されている無力感に絶望してしまう。
だから二郎のように、風を切って飛ぶ飛行機のように、大きな風の中で自らも意識的に一陣の「風」にならねばならない。生きねばならない。
それでも動き続けることに疲れたときは、誰かの手に掴まればいい。その菜穂子の手の、なんと心強いことか。
その力に支えられた二郎が返す「ありがとう」に込められた想いに、強く心動かされた。