「私が、生きる肌」(2012, ペドロ・アルモドバル監督)
「オール・アバウト・マイ・マザー」以来のアルモドバル作品。
単品としては、叙述トリック的な進行の不気味さを下地に主演女優エレナ・アナヤの美しさが際立っていて、エロティック。エロい。
しかし「オール・アバウト~」に比べてエンタメ性に偏るため、あの切り口の鋭さは見られない。
まず、マッド・サイエンティストの生み出した存在=ベラのミステリアスな美しさから始まる。彼女は何者なのか、セリフなどにちらほらと足がかりがあるものの、中盤までは明らかにされない。
人工皮膚の培養と施術にみられるロベルの繊細な内面と指づかいが静かに物語を進行させるが、マリリアとセカの介入により急速に慌ただしいものへと転調する。
トラの仮装をしたセカが登場するシーンは「さすがアルモドバル」と思わせるコミカルさが窺え、いい歳をして馬鹿げた振る舞いをする息子に弱気な説教をする母の存在も納得できてしまう。
物語の進行に大きく波があるのはここまでで、いよいよ明らかになるベラの謎、そしてロベルの一線を越えた狂気が主軸になってゆく。
彼の狂気とは何か。
それは自分に対して恨みをもつ相手が改心し(たと思い)、自らの愛情の対象にしてしまうという点だ。
そもそもビセンテに膣形成を行った時点で「男性器に対する女性器としての機能」をベラに与えることが目的のひとつであって、いつか自分が愛する対象へと「変容」することを想定していたはずだ。
この事だけでも断じるに十分だが、彼の狂気はこれだけではない。
先ほど筆者は「変容」という言葉を用いたが、「容」とは中身であり、人においては内面である。
つまりロベルはビセンテにベラ(=愛の対象)としての皮膚を与えることで、相手がいずれ自分の望む内面へと変質していくことを期待しているのだ。
もちろん軟禁状態という異常な環境もあるが、而して人はそうも簡単に変わってしまうものだろうか。「簡単に」というにはビセンテの受けたショックは大きすぎるが、だからこそギャップに適応するには相応に時間がかかり、苦悩があるはずだ。
勿論ビセンテは最終的に自我を維持したままに脱出していくわけだが、上で述べたようなことを期待し、口約束程度の契約でそれを信じるロベルは、狂気に陥っているように見えるのだ。
この作品において皮膚=外見・外側はモチーフとして非常に重要視されている。たとえばトラの仮装をしたセカの言動は非常に動物的である。
これを考慮すればロベルは「外見を重視する」そして「人間の本質は外見を基準として変質してゆく」というイデオロギーを持った人物だということがわかる。(口約束も言葉=外側である。)
しかし彼は狂気のマッド・サイエンティストであり、物語の焦点はあくまでビセンテに当たっている。
つまりこの作品においてはあくまで「内面」こそが正であり、「いくら外見を変えられても変わることのない内面」が正である。
「私」は「肌」の内側にこそいるのだ。
===
なんとかまとめた、という風ですが、ビセンテというキャラクターの扱いには非常に困りました。
彼は姿を変えられることで結果的に同性愛者の女性と結ばれるんじゃないかと想像できる一方で、やはりノルマを襲ったという罪は消えないわけで、その辺は深く考えない方がいいかもしれませんが(笑)
なんにしてもエレナ・アナヤの美しさは一見の価値あり。